【菊水寺】基本情報
延命山 菊水寺
■住所:埼玉県秩父市下吉田
1104
■駐車場:あり
■電話:0494-77-0233
【御朱印受付 基本情報】
■受付時間:8:00~17:00
※11月~2月は16:00まで
※12:00~12:30は昼休憩
■定休日:なし
■御朱印料:500円
※2巡目以降は200円



皆野から小鹿野へ抜ける八人峠に出没していた8人の盗賊が旅僧に諫められ、旅僧への弟子入りを懇願。盗賊たちは旅僧の勧めに従って「菊水」という霊泉で心身を清めたのちに仏道に励み、ふもとに草庵を結んで旅僧が刻んだ3体の聖観音を奉安。その後、草庵を移したものが菊水寺の草創とされる。永禄12年(1569)、武田信玄の秩父侵攻の際に菊水寺は焼失。本尊の聖観音は運び出され、別当であった長福寺に安置される。その後、文政3年(1820)に長福寺の本堂が建て直された際、菊水寺の本尊を長福寺の本尊として祀るようになった。平安時代末期の作とされる本尊の聖観音は埼玉県指定有形文化財・彫刻部門の第1号で通常は開帳されず、室町時代の作といわれる聖観音を前立本尊としている。なお、菊水寺はもともと現在地から南東に600mほどのところにあり、境内には霊泉「菊水の井」があったが、今は所在がわからなくなっている。
Kとの秩父札所巡りで19番目に訪れたお寺。
赤平川を挟んで埼玉県道283号 下小鹿野吉田線の対岸に位置しており、谷間に民家が集まった閑静な地域に「菊水寺」はある。
「菊水寺」と「長福寺」、2つの寺号が刻まれた石柱
「菊水寺」の歴史の複雑さを物語っているのが、駐車場の向かいに立つ石柱だ。この石柱には「菊水寺」「長福寺」の2つの寺号が刻まれている。
なぜ、このようなことになっているのかというと、前述のとおり武田信玄の侵攻を受けたあとに「菊水寺」のご本尊が「長福寺」に安置されたものの、「菊水寺」が再建されないまま「長福寺」が33番札所とされたためなのだとか。
結局、「長福寺」に安置されていた「菊水寺」のご本尊が、改めて「長福寺」のご本尊として祀られ、現在のような状況になったということだ。
石柱のそばを通ると、あとは観音堂まで石畳がまっすぐ続いていて、その両側には八重桜が植えられている。また、八重桜の他にも石碑や石仏がちらほら。
のちのち調べてみると、途中には大きな菊水の手水鉢が置かれているのだが、ワタシはどうやら写真を撮り忘れてしまったようだ。
あんな大きな鉢の写真を撮らないなんて、ワタシもどうかしている。
親孝行を称え、子を手にかけることを戒める2枚の大絵馬
参道を抜けると境内が開け、目の前に入母屋造りの観音堂がドンとそびえている。周囲がのどかなぶん、その存在感にワタシはちょっと驚いてしまった。
こちらの観音堂は正面が玄関のような珍しい造りになっているのが大きな特徴だ。堂内に入ると土間があり、建物自体に奥行きが感じられる。ただし、堂内は写真撮影が禁止されているので要注意。ちなみに、納経所は堂内に入り、向かって右側にある。
堂内にはご本尊が祀られているが、特に目を引くのが「子返しの図」「孝行和賛の図」の大絵馬だ。
「子返しの図」は間引きと称して生まれた子どもを殺してしまう風習を批判。もう一方の「孝行和賛の図」は年老いて歯のない姑を唐夫人が養っている孝行の絵図なのだという。
34の札所にそれぞれ奉納されている「観音霊験記」の扁額だが、「菊水寺」は観音堂の側面にあり、探すのにちょっとだけ苦労した。
こちらお寺の扁額には、「菊水寺」で武運を祈る楠木正成が描かれている。
そののちに正成が戦に出陣した際、持参していた観音経が矢を受け止めてくれたおかげで命が助かったのだとか。
ちなみに、境内にある松尾芭蕉の句碑は「菊塚」と名づけられていて、改めて調べたところ、観音堂の近くにも句碑があったようだ。そして、ワタシはそれをさらっと見逃していた…。「菊水寺」は境内があまり広くないが、歴史のある寺院では見どころをすべて網羅するのはなかなか難しいと実感してしまう。
そんな反省点はあるものの、参道をのんびり歩き、境内を散策する時間は、普段の生活とは隔絶されていて心地よかった。こういった時間を過ごせるのも札所巡りの魅力だと思う。
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(お出かけ日:2025年2月18日)
※敬称略させていただきます。
※施設情報は2025年2月時点のものです。